小生、生来の天邪鬼ゆえ、説教話は大の苦手であると、俗っぽく言うとそういうことなのだろう。
が、歳を重ねるごとに、心に深く染み入る言葉といくつも出会うこととなった。
先般、ある法事の席で方丈様の法話を聞いた。
「『朝』 と書いてみて下さい」 と仰り、続けて 「どう読みますか?」 と質問した。
当然のように、 「あさ」 とか 「ちょう」 と答えると、方丈様は 「十月十日(とつきとおか)とも、読めるんです」 と仰り、次のようなお話をされた。
…十月十日(とつきとおか) は、人間として誕生するまでにかかると言われている日数です。
だから、人間は毎朝、新しい命を貰って生まれ、そして夜、眠りにつくのです。
そのまま目覚めないかもしれないところ、翌朝また新しい一日を貰う。
明日があると思わず、今日この一日を大事に過ごそうと思うことがとっても大切です。
お釈迦さまも、「過去を追うな、終わってしまったことに縛られるな。まだ来てもいない未来に煩わされるな。今というこの一瞬、今日というこの一日を大切にして生きよ、と教えています…
今、目の前にいる人、目の前にあることを大事にすること。つまり、目の前にいる人に喜んでもらう生き方。愚痴や悪口や不平不満を言わず、明るく感謝の心で接すること。一瞬一瞬に念を入れて生きることの大切さを説いたものだった。
心学研究家・小林正観氏の「念を入れて生きる」という思想がある。
『念』 という字は、 『今』 の 『心』 と書く。過去のことを踏まえるが、捉われない。将来のことを見据えるが、振り回されない。今現在、自分の目の前にある (為すべき) ことを、大切にする。
将来こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう、過去に違う選択をすればよかった…
そんな風に思い煩う人は多いようだ。しかし、それは全く無意味なことかもしれない。
今、目の前にいる人、目の前にあることを大事にする心でもって、「目の前にあることを一生懸命やりなさい」ということにほかならない事だろう。
そして、その心を「実践」することが肝心となる。
自分と接する人に優しい言葉をかけ、やさしく接し不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わず。非難、攻撃、中傷をしない。いつもニコニコしていて、自分が喜ばれる存在でありたいと思いながら、生きていくことが一番理想的で 人に喜んでもらえる生き方のようだ。
それは正に、『念を入れて生きる』という生き方である…小林正観氏はその著『すべてを味方 すべてが味方』で述べている。
偉い人の説教は、素直に聴くべし! やっとそれに、気が付いた。
特に高齢者予備軍は、それを自分なりにインプットし咀嚼して、新たなエネルギーにしなければ、ただやたら、無闇に老いていくばかりである。
歳をとっての天邪鬼は単なる「頑固爺」、実に困った厄介者に分類される。
可愛いおじいちゃん、頼れるおじいちゃんを目指すべきは、まだまだ鍛錬が必要のようだ。
会長コラムより