生きる権利のために

 あの日、僕は休日の部活動を終え帰宅した。昼食をとりながらテレビをつけると、ちょうど速報が流れ出した・・・・「御嶽噴火。」この時の僕はまだ事の重大さに気付いていなかったし、あれほどの大惨事になるとは思ってもいなかった。「何か大変なことが起こったんだな」と、ただ何となくい思っただけだった。

 夕方になると、だんだん噴火の規模や被害の大きさが分かってきた。家のベランダからも、御嶽の方向に噴煙と見られる白い雲のようなものが見えた。皮肉なくらいきれいな空に、ぼんやりとそれは浮かんでいた。そのすぐ下では、あんなおそろしい光景が広がっていたというのに。

 その日から、テレビのニュースも新聞も、御嶽噴火の続報でいっぱいになった。普段はあまりニュースに関心のない僕だったが、地元での出来事、そしてあまりにも大勢の人が亡くなったということにショックを受け、毎日その日の捜索の様子をチェックするようになった。安否不明の人の帰りを、生存を信じて待ち続ける家族、帰りを待っていた人の遺体が発見されて泣き崩れる人・・・・見ているだけで胸が苦しくなるような報道ばかりだったが、僕は目をそらさずにニュースを見続けた。山国に暮らす地元の人間として、あの時あの場所で一体何が起こったのか、きちんと知っておかなければ、と思ったからだ。

 毎日報道を見るようになって、本当に色々なことを考えさせられた。噴火が起きた時、知らない人同士がお互いの命の危険にさらされながらも励まし合い、助け合っていたという話も聞いた。僕はそんな時でも他人のことを思いやれる日本人の国民性に感動し、日本に生まれたことを誇りに思うようになった。

 そして何よりも目に焼き付いて離れないのは、あの困難な状況の中で捜索に向かった、警察や消防、自衛隊の人たちの姿だ。火口付近では有毒ガスも発生し、地面は火山灰に覆われていた。誰が見ても「これでは捜索は無理だろう」という状況だった。それでも彼らは救助に向かい、途中で引き返さざるを得ない状況になると、「早く助けてあげたいのに申し訳ない」と涙を流す隊員もいた。あの状況で火口に向かうということは、自分の命も危機にさらされるということだ。たとえ仕事であったとしても、自分だったら責任感だけであそこまでできるだろうか。

 そんな隊員の人たちの姿を見ていたら、社会の授業で習った「生存権」を思い出した。僕たちの「生きる権利」というのは、こうして守られているのだと実感した。それを守るために、彼らは命をかけて闘ってくれているのだ。彼らのために税金を使うということは、僕たちのために使うということだ。無駄遣いが多いと言われる税金だが、ちゃんと大切なことにも使われている。権利を守るために義務がある。僕も大人になったら、きちんと納税の義務を果たしていこうと思う。